現在日本は若年層の減少と高齢人口の急激な増加で社会の人口動態バランスが大きく崩れ、様々な日本の産業が存亡の危機に直面していると言われています。
こういった問題は実は今始まった事ではなく戦後の団塊の世代が成長し、日本の社会を動かして来た時に既にその兆候について識者の間で叫ばれていました。しかしその後大きな対策は取られず日本の経済は台頭する中国に押され今日に至っていると言わざるを得なくなりました。
  産業の現場の平均就労年齢は上がり、在職期間は短くなり、且つ働く人さえも募集が難しくなりました。こんな状態にある日本の労働市場は今から出生率向上の為の対策をしても最低でも20年は掛かるでしょう。それまで日本の産業が持てばの話ですが。そしてそれまでの間の産業の現場はITやAIによるロボット化、そして外国人就労者に頼らざるを得ない状況に今あり、しかも入管法違反や犯罪発生率の問題も併せ今後の対策に知恵が必要となってきています。
  今から30年前私はタイで駐在する日本人家族の為の医療サービスを行う事業所を立ち上げる為働いていましたが、その頃のタイの産業現場は、機械化どころでなく、人口の殆どを占める若者が危険な作業を手作業で、医療保険さえもない状態でぎりぎりの賃金で働いていました。しかしみなぎる若いパワーにより国は年々経済成長させていました。そしてそんなころ日本は今で言う技能実習生と言う名で日本に招聘し、母国の為に技術と経験を積ませる研修生制度を始めたのです。しかし実際は日本人が働きたがらない3Kの仕事を東南アジアの人達が出稼ぎをして日本の単純労働市場を支える構図であった訳です。このバランスは一見旨く働いているように見えましたが、それは人身売買と疑われる行為としてILOに指摘され、長い間その改善を日本に則してきましたが、そもそも人材斡旋事業はこういった問題をはらみ易く、その問題は今に至って問われ続けています。
  そして、コロナ禍と共に世界の労働市場の構図が大きく変わってきました。急成長する東南アジアの経済、体力を失って没落の一途を辿る日本の外国人労働市場はどんどん魅力を失い今後果たして外国人労働者が日本に来てくれるかどうかも疑わしくなってきたのです。
  私はこんな構図の中で私達が考えるべき将来は、長きに渡って日本で働き、日本人の文化を理解し、日本語を習得した彼らを労働者として扱うのではなく、生活の仲間として接し、彼らの在日在留中、帰国後に渡りビジネスパートナーとして長くお付き合いしていく。その為にどう接するべきかを考える良い機会が今ではないかと考えています。
  介護の現場はその中で昔の日本を知る日本人を相手とする外国人就労者としては難しい現場です。しかしこういった現場は経済的にきついからといって簡単に辞める事の出来ない仕事です。私はその出口は国際的なサービス環境ではないかと思っています。何故なら人材の母国を知り、日本の現場を毎日見ているからで、その関係は決して人材が母国に帰ったからと言って切り分ける事が出来ないのだと思っています。
  また私もいずれ介護を受ける事を思えば尚更で、育成した介護人材に日本でなくても世話になりたいと思うと、この人の流れと言うのは介護のみならず、農業や飲食業でもそして生活上必要となる機器や道具のメンテナンスと更新、生み出すものすべてが私達に直接かかわって来る。この事を考えると母国に帰った人材達と共に生活できる確信が日に日に大きくなります。そしてそれを思って外国人就労者を受け入れると言う考えはいかがでしょうか。(2023年1月12日)
蜂 屋 昌 宏
1956年11月生まれ
日本航空国内旅行開発鰍ノて国内リゾート開発企画立案プロジェクトチームで働く。
鹿島建設で新事業開発本部にて健康管理事業プロジェクトに参加、国内初の介護施設の設立企画チームで働く。
富山化学鰍ノて医療情報提供者(MR)業務を経て、フランス原子力庁日本支社にて放射線医療診断・治療機器の販売を行う傍ら第一次出生前診断プロジェクトの企画立案研究、支援チームで働く。
その後独立し、医療現場のIT化にそぐう一般開業医師のコンピューター教育、電子カルテ普及事業を東京都医師会とコラボレート事業を行い、ベンダーとして登録される。
大手保険会社の依頼でタイにて日本人医療施設を設立支援チームとして働く
フィリピンに日本語学校・育成支援機関を設立、経済連携協定介護・看護職育成支援事業を行う。
NPO法人 国際ケアエイド協会を設立、都内在住の外国人日本語クラスを東京都委託事業者として実施する。
現在日本国際ケアエイド協会を一般社団化し他事業への拡張性を持たせ、国内外の外国人就労在留支援をインドネシア、ミャンマー、カンボジアの人材育成在留支援、そして日本人リタイアメントリゾート事業を開始している。